1997-02-20 第140回国会 参議院 文教委員会 第2号
御承知だと思いますが、アジアの各国から留学生を昭和十七年、一九四二年から東京大学、陸軍士官学校、宮崎高等農林学校、今の宮崎大学に留学をさせて、一期生から四期生ぐらいまでおりますが、この人たちがアジアの各国の独立をなし遂げ、そしてASEANの結成に大変な貢献をした。
御承知だと思いますが、アジアの各国から留学生を昭和十七年、一九四二年から東京大学、陸軍士官学校、宮崎高等農林学校、今の宮崎大学に留学をさせて、一期生から四期生ぐらいまでおりますが、この人たちがアジアの各国の独立をなし遂げ、そしてASEANの結成に大変な貢献をした。
高等農林学校をつくった。ソウルに 京城帝国大学をつくり、一挙に教育水準を上げ た。全く教育がなかったわけだから。鉄道を五 千キロ、道路一万キロ(をつくり)、港湾の整 備、開田・水利をし、山には木を植えた。創氏改名について。 (日本の植民地支配は)誇り高き民族に対す る配慮を欠いた。それが今、尾を引いている。 その一番のものが創氏改名だ。
高等農林学校をつくり、ソウルに帝国大学をつくり、一挙に教育水準をあげた。鉄道五千キロ、港湾整備、開田・水利をし、山には木を植えた」、このように賛美をされて、創氏改名についても、「全部の国民に創氏改名をやらせたとは思えない」と半強制的だった歴史的事実を否定いたしました。
○山本正和君 私も、三重県の出身だということも含めまして、特にお願いしておきたいんですけれども、三重高等農林学校というのは大正十年に設置されまして、もう六十五年になるわけです。これは、三重県という県では高等専門学校というのはこれ一つしかなかったということも含めまして、大変県民の中に親しまれている学校であったわけでございまして、それが中心になって今日の三重大学ができている。
君の御両親は、苦しい生計の中から、幼少より聡明利発であった君の希望を入れ、十勝農業学校へ入学することを許し、君はさらに宇都宮高等農林学校を経て九州大学農学部に進み、昭和二十二年、同大学を卒業されました。 君は、学生時代を通し学業の成績がよいだけではなく、下級生のめんどうをよく見るなどでクラスメートの信頼が厚く、休暇で帰郷したときは家業の農業を手伝う君の姿が見られました。
私がかつて非常に尊敬しております宮沢賢治、松田甚次郎、この方々は、かつての盛岡高等農林学校をお出になった方々でございますが、お二人とも短い人生をあの東北の零細な、しかも凶作に見舞われる農業に生涯をささげたんですね。私は、こういう人が出てこなければいかぬ。
柴立君は、大正四年鹿児島県に誕生され、鹿児島高等農林学校林学科を御卒業後、昭和二十六年鹿児島県議会議員に当選せられるや、よく県民の負託にこたえられ、以来五期二十年にわたり県政の振興に尽くされ、地方自治の発展に多大の貢献をせられました。
毎年私はこれを言うのでありますが、やはり知識がなければ知識を集めて、民間にはそれぞれの国の事情に詳しい者がおりますから、少なくとも戦前にありました六つの高等農林学校——いまはそれぞれ大学の農学部になっておりますが、そこに一回行かせて、そして夢多き青年が、海外に農業技術を持って出ていくのは奨励すべきじゃないかと思います。奨励の御方針を立てていただきたいと思いますが、どうですか。
○田原委員 戦前には宇都宮高等農林学校、盛岡高等農林学校、三重高等農林学校、岐阜高等農林学校、宮崎高等農林学校、鹿児島高等農林学校、六つの高等農林学校に拓植科というのがありまして、海外に移住して、移住先でもって技術を持ってやっていける教育をしたものであります。現に南米各地には多数のこれらの学校の卒業者が行っております。
戦前は盛岡高等農林、宇都宮高等農林、三重高等農林、岐阜高等農林、宮崎高等農林、鹿児島高等農林学校等には拓殖科というものが特設されておりまして、中興高級技術者としての素養を修め、そして東南アジアから中近東、それから中米、南米に移住さしております。現在四十四、五歳から五十五、六歳ぐらいまで、老年の者はアルゼンチンの石川さん等八十歳、盛岡高等農林の第一回卒業生であります。
戦前、海外移住が非常に盛んになりましたころ、高等農林学校には拓植科というものがつくられておった。盛岡高等農林、宇都宮高等農林、三重高等農林、岐阜高等農林、鹿児島高等農林、宮崎高等農林にはありました。
文部省は、戦前には、宇都宮高等農林学校、盛岡高等農林学校、岐阜高等農林学校、それから三重高等農林学校、宮崎高等農林学校、鹿児島高等農林学校に拓植科というものを置いておりまして、これらの高等農林学校出身者が中南米に行って、黙々としてその地区における日本人の指導者になって、産をなしております。それから、北大あたりから行った者もあります。
しかるに終戦後マッカーサーが来まして、海外移住はいかぬというので、まず文部省をおどかし、これら歴史ある高等農林学校における拓殖科を廃止してしまった。それですっかり文部省は腰を抜かして、いまだに教育面からする海外移住というものは怠っております。しかし、農林省は、たとえば水産講習所を経営しているごとく、もしその気になれば、各大学の農学部に農業拓殖科をつくるようなことはできやすまいか。
ところがいわゆる新しい大学制度によって、旧制の高等農林学校あるいは高等農業学校が大学に切りわかることによって、私の経験によれば、むしろ指導者は素質が後退しておるのではないか、昔の高等農林当時の方がもっと内容もよく、指導能力もあるような人材が養成されたのではないか。いわゆる地方大学の農学部などというものは、今あるというのは名ばかりで、内容はきわめて見劣りが他の部局に比べてあるのではないか。
これらをできるだけふやしていくこと、それから高等農林学校あたりの先生方で南米に関心を持っておる方がおられます。こういう方にもできるだけ行ってもらうようにいたしておりますが、その数は非常に少ないということは言えると思います。
これはいろいろな公民として、国民として、地方民として当然いろいろな集会だとか、修養、娯楽の時間だとかありますから、そういう時間を、僕の郷里あたりで三十四、五才程度の営農の中心になっておる、まあ高等農林学校卒業程度の諸君の労働日誌からずっと推察いたしますと、農協の総会だとか、部落の集まりだ何だかんだありますね。
たとえば三重、鹿児島、盛岡、宇都宮等の高等農林学校には拓植科というものがあったが、終戦後これはみんないつの間にか廃止してしまって、近ごろでは、海外事情というものは、高等教育では、限定された私立大学にしかない状態である。だから、高等教育においても海外移住に対する技術専門家を養成することは必要であります。 それで、私は文部省に伺いたいことが二つあるわけであります。
○石田(宥)委員 そこでなお総裁にお尋ねしたいんですが、実情もお耳に入っておると思いますけれども、私ここにちょっと資料を持ってきておるのですが、その手続が非常にもう煩瑣をきわめるものであって、おそらくこれは高等農林学校でも出た農民ならできるかもしれませんけれども、農民の手には事実負えないと思うのです。こういう繁雑な、煩瑣なものを、何の必要あってお作りになったか。私はその点に疑いを持つのです。
そして高等農林学校を大学にしたいといふ希望があるのでありまして、ただいま請願しておる水産大学ができるものとすれば、ここに総合大学の可能性が存在しておるのであります。しかるに仄聞するところによりますと、高等農林学校を大学に昇格をして、どこか他縣の総合大学へそれを併置するというような説を聞くのでありますが、その点は事実どういうことになつておりますか。